ピ ンク・レディーのライブを堪能できる代物たち






Pink Lady Live!Live!live!!

78 ジャンピング・サマー・カーニバル(7万人コンサート)
ピンク・レ ディー全盛期真っ只中の夏、後楽園 球場において行われた最高にビッグなイベントであ る。この時より、 つい3ヶ月前アメリカ、ラスベガスで行わ れたショーの成功で更に自信をつけたステージングがこの7万人コンサートではたっぷり堪能できる。後楽園球場といえばこの年の4月にキャンディーズが解散 コンサートを行ったのが最初であり、これを機会に球場コンサートというのがどのアーティストも定番になってきた。
 さてピンク・レディーの本題に入ろう。このコンサートでまず、今までと違うのは、この頃一番のピークを迎えていたピンク・レディーブームを象徴するよう な規模の大きさ。球場での開催のため、どうやって会場に登場するか、あれこれ当時話題にもなった。ヘリコプターで登場!などという話もあったそうで、もし こ の パターンでの登場なら面白かったかも?と思ってしまいました。まさにUFO!ですね(笑)実際にはオープンカーでの入場だったが当時このライブの模様がテ レビで放送され、僕 もじっく り見た記憶があるが(夏休み)オープニングからもの凄い迫力で押してくる。ハリケーンというオリジナルのバックミュージックにのって登場続いてスリーディ グリーズのナンバーでおなじみソウルトレインのテーマこれらの曲を演奏しているバックのミュージシャンたちはピンク・レディーのいつものバックをつとめる ソウルメディア・・・と今回凄いことにあのラスベガス公演でバックを務めたチャックレイニー&リズムセクションのメンバーも応援参加というからビックリ! 豪華なメンバーのバックにのってふたりが最初に歌った曲は忘れたいのに。続いてメドレーでラビンユーイズキリンミー。このLovi'n you is killin' me当時大好きな曲であった。(誰の歌なのか正直申しまして分りません。管理人ともあろうものが情けない・・・)よく歌ってました。
大好きな忘れたいのにに始まったジャンピング サマーカーニバル。以前より迫力の増したステージングには圧巻であった。とてもとても・・アイドル歌手の人気だけで行っているコンサートではないような雰 囲気さえ漂 う。一種海外のアーティストのコンサートのようにも思えるステージであった。英語の発音も以前よりキレがよくこの後ヒットメドレーに続いてアラベスクのハ ローミスターモンキー(後のシングル、ピンク・タイフーンのB面に収められた)の後、アバのイーグル、Take a Chance on meを球場を1周しながら披露。ジョントラボルタ主演でブレイクしたサタデーナイトフィーバーからビージーズのナンバー恋のナイトフィーバー、ステインア ライブ、愛はきらめきの中にそしてビートルズメドレーなどをダイナミックなボーカルで聴かせる。日本のアイドルがこんな選曲ちょっと 凄いと思いませんか?しかし、この ライブで一番絶賛なのはそれぞれのソロ曲。いままでの中で一番最高な歌声をそれぞれに聴かせている。二人が歌手を目指していたころ、絶対歌手になるといっ たとあるだけ歌がホントに好きなんだなあと思う歌唱であります。ミーはこの恋に生きて(It must be him)ケイはチェインド・トゥ・ユア・ラブ。まずミーだがこのIt must be himという曲は以前のステージでもふたりで歌っていたが、今回は英語でそ れもソロ曲として力の限りの熱唱をたっぷり聴かせてくれている。もともと高音が持味のミーだが更にその高音に磨きがかかり最初の語り口調の歌いこなしもバ ツグンでラスベガ ス公演で自信をつけたのか丁寧でダイナミックでもうこりゃあアイドルじゃねーよ。と思わせれるほどの歌唱力である。アメリカンナイズされた歌いこなしは、 まるで洋楽のアーティストである。一方ケイの方はというとこりゃあまた凄いミーが高音を効かせてじっくり聴かせるならケイのほうはティナターナーばりの迫 力で押しまくる。特にドスの利いたシャウトはケイならでは。何枚ものライブ盤の中でもソロ曲といえばこのジャンピングのときのものが最高に大好きです。リ ズムのノリもよくキメのシャウトがほ〜んっとに独特でこういう歌唱法はケイの場合いちばんらしいのです。やはり彼女もラスベガスから大きなお土産を披露してくれたなあと 感じたものです。ピンク・レディーのアメリカデビューが決定したのはこの後楽園球場でのライブだというのもうなづけます。大きく躍進するピンク・レディー を象徴するにふさわしいイベントだったと思います。さて、この7万人コンサートはスケジュール多忙な78年7月に行われたわけですが、リハーサルも炎天下 の中行われた。とくに体調不良のケイはもう限界ギリギリで本番を迎えたそうで、それであれだけのパワフルな歌と踊りを披露できるわけですから、やはりプロ なのだなあと改めて思う。その根性が世界にまで羽ばたく原動力だったのですね。 
しかし、こ れほどのライブを行えるピンク・レ ディーでも当時ブラウン管で歌うときはお子チャマのアイドルとしての評価しかなく、いつも悲しかった思い出がある。確かに歌って踊ることに一番興味を示す のは子供でしょう。でも、そこが評価する側のもっとも難しいところであり、モンスターが当時の新曲でしたが、どうしても浮かぶのはウルトラマ ン、仮面ライダーなどの世界なのかも知れません。ほんとはもっと深いところでの解釈があるのですがそんなこと理解できる大人たちはカイナシだったのでしょ うから。ここからシングル盤のイメージと実際行ってきたアメリカ進出とのギャップが生まれて来るのです。よかったのか悪かったのか、今振り返るとどちらと もいえませんが、結果オーライということでよかったのだと思っています。楽しい世界観はやはりこの時のピンク・レディーにしか出来なかったでしょうし、子 供向けと取られがちな曲を歌ってもアメリカの音楽界にデビューできたということは、本物を見抜いてのことだったのだと思います。今でも、過去のアイドルと とられがちのピンク・レディーを応援しているファンたちには何故いまだに応援しているかといえば、アメリカでの業績そしてこのライブの素晴らしさを知って いるからに他なりません。







そんな最高 のライブを収録したのがこのライブ アルバム。78JUNPING SUMMER CARNIVALです。
今、ご紹介した全てはこのアルバムに満載であります。オープニングからエンディングまでMC収録なしの完全音楽主体盤?とでもいうのでしょうか?レコー ディング して発売したらもっと凄いことになるかも知れないほどの名曲の数々。
全体的にチャックレイニー&リズムセクションのメンバーが参加していることでバックのサウンドにも厚みがあり、最高にノッた歌声が満喫できる1枚です。
音だけでも素晴らしいのですが、欲をいえばやはり映像に乗せてこの音を聴きたいと思います。
時代でしょうか?今なら簡単なことなのですが、当時テレビもやっとステレオになったばかりでそれも全部ではなくところどころだけの放送でした。(今の地上 波デジタルみたいなもんです)このライブもテレビで放送されましたが、モノラルでした。是非デジタル化した音をバックにこの映像を見てみたいものでありま す。ちなみにアメリカでのレギュラー番組ピンク・レディーショウのオープニングフィルムはこのライブのときのものでありました。
ピンク・レディーのライブ特集、次回はケイちゃん感涙!77バイバイカーニバルの予定です。(あくまでも予定です。都合により変更あり?笑)

ピンク・レディーディナーショー
前回、7万人コンサートを乗せた後、予告として77バイバイカーニバルを掲載予定な〜んて書いちゃったけど、予定は未定であって決定ではないとい言うわけ ではないのですが、今回以前見にいったことのある。クリスマスディナーショーのことを今回先に掲載いたします。バイバイ〜は次回ということでご了承下さ い。

90クリスマス ディナーショー
前年の暮 れ、(平成元年)NHK紅白歌合戦で 急遽再結成し、翌年の11月からNHK歌謡パレードのテーマソング (2年目のジンクス)を歌うということで年内のみ、2ヶ月間だけの再結成時の間行われたディナーショーである。
僕は12月24日まさにクリスマスイブのその日に大阪南海サウスタワーホテルでショーを拝見いたしました。
想いを越せば本物のピンク・レディーに会えたのはこの日が初めてであり、解散コンサートで九州の地元の会館にも来たのですが、見に行けず残念な想いをこの 時、初めて晴らすことが出来ました。
ディナーショーですからまず、食事ですよね。この時の彼女とふたり(※注 今の女房ではありません 笑)ワクワクしながら食事をしたことを覚えています。 メインの子羊のステーキがうまかった〜。そして、食事を終えて、いよいよショーの開幕です。会場が真っ暗になり、シーンと静まり返ったあと、いきなり星か ら来た二人のイントロが流れ出しました。白いマントというかコートというかそんなようなのようなものをまとい、ステージ両サイドから表れたふたりを初めて 見てもう〜なんともいえない想いで心の中はもうドキドキしていたのを覚えています。わ〜たしたちは〜 と歌いだして尚のこと感激の鼓動は胸の奥底を怒涛の こどく打ち出しました。あなたのゆめは〜からハモリの入った歌唱に現役当時ユニゾンで歌っていたのにハモリ〜!っとまたまた感激!!!と同時にふたりの歌 唱力の素晴らしさにほんと感銘を覚えたものです。続いてマントを脱ぎ捨てペッパー警部、S.O.S、渚のシンドバッド、踊りたくてウズウズしていたけど やっぱディナーショーですから・・・ね。その後MCミーちゃんの「今日はようこそ、ピンク・レディーを懐かしがってお越しいただきありがとう」といえば、 ケイちゃんが「な〜にいってんのよミー。今日はねクリスマスイブよ、会社のお付き合いだとか、しょうがなくイブだから見に行くか!とかそ〜んなにピンクレ ディばっかり懐かしがって来てる人ばかりじゃないのよ!」のコメントに場内、爆笑!そうするとミーちゃんが「え〜じゃあピンク・レディーを懐かしい〜ってみえてる 方いらっしゃらないのですか〜」の コメントに場内、大拍手!!ミーちゃんがそこで「では、その調子でもっと拍手くださ〜い」の後ワンツースリーワンツースリーワンツースリーウー!ピーン ク・タイフ〜ンです!!もう〜感激の鼓動は鳴り止みません。更に衣装代えをしてクリスマスソングを口ずさみながら登場した後、あのマンデー・モナリザ・ク ラブ、にがい涙(コレもハモリが最高!)、Kiss in  the  dark、2年目のジンクスと続くのですがマンデー、KISSの、アレンジを長くしたまたそこにダンスシーンをふんだんに取り入れたステージングはさす が!世界のピンク・レディー!と思いましたねえ。カッコよかった〜。 次に衣装代えをしてウォンテッド、モンスター、カルメン77、サウスポーと続きます。ここで!アレ違うと思ったことが・・・カルメンの振りが違うのです。 何が?とおっしゃるかもしれませんが、実はサビに入る前 フラフラにさせる〜からほんとは左手での振りなのに右手でやってましたそのまま違う右手でサビの カルメ〜ンまでやってまして・・。アレだとトリコのしてみます〜から体重移動してカルメ〜ンになるのが移動せずにカルメ〜ンになっちゃいます。会場でそん なこと思ってました。サウスポーも微妙に昔と振りが変わっていてコレは面白い〜と思ってました。それとウォンテッド、カエッセ〜のあとウ〜ウォンテッ!! と2回ありますが当時はウ〜と延ばすのは最初のみ2回目はウォンテッ!だけだったのに対し今回は2回ともウ〜があったなあとか思ってました(笑)そんなこ んなで時間は過ぎて行き、ラストもう一回ペッパーをワンコーラス半歌って退場。アンコールの声に乗って、待ってました〜UFO!やっぱコレで締めくくりか あと思っていると「また、いつか地球に戻ってきます」のコメントの後、ホントのラストは当時日本でもドラマのテーマソングとして大ヒットしていたダイアナ ロスのIf we hold on together、その曲にピンク・レディーこだわりの気持ちが感じられました。最高のハーモニーで幕を閉じた初めてのピンク・レディー体験。それはほん とにラストの曲ではないですが「想い出にかわるまで」だったような気がします。
この日のディナーショーのことは翌日の新聞に掲載され、後にNHKでこの時のものではないが、同じ構成のものを放送したが、肝心の星から来た二人、マン デー、にがい涙、If we hold on togetherはカットされていた。残念!


96ク リスマスディナーショー
1996 年、デビュー20周年を記念してシン グルPINK EYED  SOUL 発売の時開かれたディナーショー。
12月18日、広島、そしてピンク・レディー。自分を取り巻くキーワードが勢ぞろいのディナーショーでこの時一緒に見にいった女性と後に結婚することと なった。
まず、12月18日この日は親父の命日。広島はバレーボールのメッカであり、僕の人生に多大な影響を及ぼしたあの猫田選手を生み出した土地なのだ。そして ピンク・レディー、ここは説明不要だろう。
そんな想いを胸に車は一路広島へと走る。この日のために新調したスーツを持って。
広島グランヴィアというホテルで行われたディナーショー。ここに宿をとっていざ、会場へ出陣!
前回の90年ディナーショーを経験しているので、今回はどんなだろう。と期待を胸にメシにバクつく。
さあ、ショーの開演!前回からの続編という感じに今回はUFOからスタート。「みなさん、久しぶりに地球へ帰ってきました」とばかりにS.O.S、カルメ ンと続く。途中衣装チェンジをして部屋を出てください、ベスト・パートナー(PINK EYED SOUL カップリング曲)、OH!を歌いデビュー前の 秘話などを披露。「部屋を出てくださいはみなさん知らないでしょう?」の 問いに「知ってるよ〜」と僕がいえば、「エッ知ってるの」と僕の声に気づかれてしまった。すると、ケイさんが「ミーの友達来てんじゃないの〜」って。まあ 嬉しかったですけどね。OH!のところでは紅白辞退をして行ったチャリティコンサートのときの話など・・・楽しいひと時はアッというまに過ぎて行く、そん な時大失敗!トイレに行きたくなったのだこうりゃあ大変だあ!どうもワインを飲みすぎたのだ〜。あ〜テレビと違ってCMないしなあと想い、どこどで行くか と思いきや、ケイちゃんごめんなさい。ケイちゃんがソロでイッツ・トゥ・レイトを歌っているとき、猛ダッシュで行ってしまった。やっぱりトイレには勝てま せん(笑)その後ミーさんのソロシングル、ラブ・ジェイルを披露。(この時のミーちゃんは凄かった)後はヒットメドレーだったが、今回のディナーショーの とき、楽しい思い出はもうひとつあ る。実はショーの合間ふたりがステージから降りて直接歌ってくれたのだ。ディナーショーにはよくある演出だが、僕が座っている席にはケイさんが来てくれ た。「あなた面白いわね〜。なんならステージ上がって歌う?」な〜んていわれちゃって「ケイさん、いつも綺麗ですね〜」というと「何いってんのよ〜」とま るでホステスと客のような会話をしてしまい、当時20代だったのに、まるでおっさん化していた自分が少々情けない・・・(笑)でも、ケイさんてきさくでい い方だなあと思いました。ミーさんも綺麗だったし、ますますピンク・レディーが好きになったのも事実です。
ラストは新曲PINK EYED SOULでしたが、この時のディナーショーはケイさんと会話できた。ということもあり、又冒頭でふれたメモリアルな日でもあり、今でも忘れられないショー なのです。
今回は思い出話になってしまいましたが、ご了承下さいね。ではまた。







ピンク・レ ディー77バイバイ・カーニバル
もう今年も 師走に入りそろそろ1年の締めくく りですが、そんな折いつも思い出すのが、武道館での初リサイタル77バイバイ・カーニバルである。
77年はピンク・レディーにとって連続1位、ミリオンなどデビューの翌年にしては出来すぎた年だったかもしれない。だが、今までにないスタイルでのデ ビューはこれに相当するほどのもであったのだ。
今でも世界中のスターと名高いあのビートルズが武道館公演を行ってから後これほどの観客動員数は快挙といわれた。1万3000人。武道館に収容出来るギリ ギリの人数である。まさに後のシングル愛GIRIGIRIはこのときの模様をいうのであろうか?(笑)
ピンク・レディーのふたりに当時のコンサートで思い出のあるコンサートとは?と聞くとミーは後楽園球場での7万人コンサートと答え、ケイは77年の武道館 公演と答える。それもそのはず本来ならこのコンサートは実現しなかったかも知れないからだ。
なぜなら、このコンサートを行う直前、ケイが急性の虫垂炎で入院。10日間の入院はその頃一番大忙しの暮れに数々の波紋を呼んだ。コンサートはおろか?年 末のレコード大賞、紅白歌合戦への出場も危ぶまれた。このことは先日発売になったケイさんの自叙伝に詳しく記載されているが、当時の雑誌などにも多数掲載 された。一番メディアの中で露出が多い時期、ミーひとりのピンク・レディーはとても小さく見えたと入院中のケイは後に発言しているが、僕自身も当時やっぱ りピンク・レディーはふたりなんだなあと改めて感じていた。12月20日に行われたFNS歌謡祭ではひとりピンクということで本選出場を辞退。要するにグ ランプリ選には出場しないというのである。(今 の若い方々はご存じ ないかもしれませんが、当時はFNS歌謡祭もグランプリなどがあったのですよ)部門賞の 最優秀ヒット賞
は年間第1位の「渚のシンドバッド」が受賞。ケイのいないステージでミーひとりがバックダンサーと一緒に歌う「渚のシンドバッド」にはなに か物足りなさと淋しさが伺えた。ふたりでひとつのピンク・レディーは 半分ではその魅力を存分に発揮できないのだなあとつくづく感じたものでした。人気絶頂期のピンク・レディー、誰もがケイの早期復活を願ったものだ。わず か、10日間の入院であったが思えば長く20日〜1ヶ月くらいに感じたものだ。当の本人も入院中あせりは隠せない模様で少し具合がいいと「ベッドの上で ペッパー警部踊ってみたの。でも、痛くて・・・」と発言して
いる。(このエピソードを聞いてからです。自分も体調思わしくない時は試しにペッパーやってました 笑 そしてよし!いける!などと思ってました 笑 ) また、「どこのチャンネルひねっても1日中出てるんですよねえ、その時は吐き気がするくらいに・・・」とも申しておりました。その時自分の置かれている立 場を痛感したのではないだろうか?普通の人では許されてもピンク・レディーでは許されないという立場。みんなが待っているという立場。そのことは栄光の道 を進んでいるピンク・レディーのひとりだという使命なのである。
 暮れの武道館公演の歌詞なども入院中から渡されていたそうで今回全く新たに歌う曲も多くベッドの中でケイは何を想い譜面を見ていたのだろうか?
そんなこんながあり、いよいよ武道館公演本番。
傷口のまだ開いたままカーゼを詰め込みその上から衣装をつけたケイは「もうここで死んでもやる」という覚悟でのぞんだという。
「アラスカロックの風が吹く」で登場した二人を大歓声の渦が取り囲む。久々のピンク・レディーだ。
ピンク・レディーのふたりもファンも一体となりその年締めくくりのステージの幕は切って落とされた。
あの娘はアイドル〜思い出のサマー・タイム〜素敵なモーニング・ガール〜ダ・ドゥ・ロン・ロン新しいメドレー曲に乗って最高のステージは続く。チャップリ ンに見立てた新しい衣装に身を包み新生ピンク・レディーの新たなステージングは更にパワーアップしたような印象を受ける。ケイの乗りはライブ盤を通しても 感じることができるが、歌いたくて歌いたくてしょうがなかったのだろう。その辺りにファンたちもお帰りケイちゃんの気持ちも込めて精一杯のコールを送る。
 ケイちゃんのことにばかり触れてしまいましたが、ミーちゃんにしてもひとりピンクは辛かっただろうと推察致します。なにせあのハードスケジュール。ふた りだからこなせていたものをひとりでとなるとそれはそれは大変だっただろうなあと・・。ミーさんも「ケイがいないとなんとなく心細くて歌詞なんかも忘れ ちゃうのよねえ」など発言していた。ここでもピンク・レディーはふたりでひとつなんだと思わせられてしまうコメントである。

 さて、ス テージも中盤、ガーゼを詰め込んだ 傷口は刻一刻と迫るエンディングに向けて「早く終わってくれ」と叫んでいるが、当の本人ケイにしてみれば「まだまだよ」と精一杯のステージングを見せる。 ヒット曲の披露〜それぞれのソロ曲へケイの歌う「帰り来ぬ青春」は独特の歌いまわしがわずか10日間の入院時の苦悩を訴えるかのような響きを持つ。ファン たちのテンションも最高に盛り上がったところでロックンロールメドレー!。ダイアナに始まるピンク・レディーのもう一つの見せ場それがロックのメドレーで ある。それまでのコンサートでも最高のシャウトで聴かせるメドレーは圧巻のステージに変えていったがここ武道館でもやはりやってくれた。アイドルというよ りやはりステージ歌手なのだと思える最高のエンターテイメントに日本発世界級の第1歩ラスベガスでのショーが決まったのも実にこの頃のことである。ノリに ノリまくったメドレーが終わると新曲UFOを始めとするヒット曲の応酬でステージ終盤へと差し掛かる。ウ〜ウォンテッ!で決まるとファンのテンションもこ の上ないものに・・・。ここで僕が大好きな「忘れたいのに」(ア ラカルトご覧下さい)が初披 露。いよいよエンディングへ。この時ガーゼを詰め込んだ傷口は「やっと終わりだあ」と喜びの声をあげる。その時ケイの頬を大粒の涙がつたう。ほ〜たるのひ 〜か〜り・・・卒業式でもおなじみの曲にのせてあの辛い状況でその年最後のステージをやり終えた実感がここでケイ自身を包み込んだのであろうか?とめども なくあふれる大粒の涙。なんにも変えがたい歌うということそのことにケイはここから再びスタートしたのである。
日本発世界級PINKLADYの誕生はこの時からわずか数ヶ月のうちに実現となる。











サマー・ファイ ア’77

   

OH!STEPピンク・レディーの楽しい道からこちらSexyDynamite!PINKLADYに移行して初めての更新はまさにタイトル通り Dynamite!なライブをお届けします。
ピンク・レディーサマーファイア’77まさにピンク・レディーが上り調子の頃のライブであり、ライブのタイトリ通りファイア〜!!なライブです。
のっけからなにをいっているのでしょうか?(笑)
それほどのライブなのです。どうも今回は少々興奮ぎみですみません。^^
このライブは77年7月26日東京、田園コロシアムを皮切りに8月27日まで全国25会場48公演行われまさに夏休み真っ只中に全国にピンク・レディー旋 風は吹き荒れました。
デビューから一貫して世界を目指したステージングは早くもその一片をこのステージで垣間見ることが出来る。
僕が記憶に残っていることは、夏休みこの田園コロシアムのライブがキャンディーズの日比谷でのライブとジョイントで放送されていた。
当時はただ人気アイドルの共演と思っていたがこの2枚組みライブアルバムでその本性がわかった。
オープニングからロック色の強いサウンドでギンギンに押しまくる。ブラックイズブラックこの曲を歌うふたりの歌声は暑苦しい夏の夜にいただくビールののど 越しのようにわずかな苦味がまた格別といったようでスパイスの効いたボーカルは五臓六腑に染み渡る魅力を持っている。
ダンシン グ・クイーン、恋はOK、ロックン ロール・コースター・・・と世界のヒットナンバーとともにピンク・レディー初めてといえる最高のステージングは 続く。途中ヒット曲をはさみ、それぞれのソロ曲「ホテル・カリフォルニア」「エバー・グリーン」これが中々の味を持った曲でケー、ミーそれぞれの持ち味を 活かしているといえよう。まず、ケーのソロ曲「ホテル・カリフォルニア」は自分で訳詞に挑戦したというのが当時話題であった。喉をつぶした後でなにを歌っ ているのかさっぱりわからないがそれが何故か英語詞で歌っているようでかっこよかった。ミーは持ち味のファルセットを多用し器用にバラードを熱唱。彼女の 歌心がいっぱい詰まった1曲といえよう。
スティービーワンダーの愛しのデューク他ピンク・レディーお馴染みのカバー曲ももちろん熱唱。
その後、昨年映画でも話題になったレイ・チャールズのナンバーもフルに活用しメドレーでピンク・レディー風にアレンジ。熱唱していた。
後半いちばんの盛り上がりといえば、このレイ・チャールズのWhatISayを1曲目に持ってきたメドレーでしょう。
後々アメリカNBCの番組でも歌われたジョニー・B・グッドをはじめとしたスタンダードなロックンロールメドレー。何故か男性ボーカリストの曲を多く歌っ ているピンク・レディーのステージは女の子なのにブラックでハードで迫力といった点で当時の他の女性ボーカリストの中でも一種独特な雰囲気を持っていたと 思われます。後になって、彼女たちのヒット曲にモンスターや透明人間 といった曲が出てく るとはこの時点では予想もつかないことだったのです。
ライブアルバムを聴いてもうひとつ思ったことは彼女たちのファンサービスとして歌われたCMソングである。
この時はシャワランとナショナルペッパーを披露。いずれも彼女たちの日本での人気がただものではないと思わされるコーナーだったように想います。
「モンスターアイドル」そんな言葉で後年ピンク・レディーは語られますが、新曲「渚のシンドバッド」の頃行われたこのライブは違った意味でモンスターのよ うに思えてなりません。全体を通して若さの象徴といえるパワーを多く感じ、声の出し方もストレートで基本に忠実な歌い方にも好感が持てるし、このごく普通 のように思えていた二人が世界へ羽ばたくということはこの時点から確約されたようなサマーファイアーであったと振り返って思うのである。
なお、この模様を収録したライブアルバムの詳細はこちらに掲 載していますのでそちらもご覧下さい。
NiceFight!MIE&KEI!!




 

 

 


3月31日ド キュメント

チャレンジ・コンサート

ピンク・レ ディーにとって初めてのリサイタル と最終公演は同じ日であった。
これは何かの因縁を表すのではないだろうか?
デビューから一貫して世界を目指したステージ。それは後になればなるほどお客の心を掴んで離さないものへと躍進していく。
歌手にとってステージほど大事なものはない。
いくらテレビでヒット曲を見ても、実際のステージがつまらなければ、ファンの心を引き止めることはできないからである。
以前、いろんなアーティストのステージを見たりしたことがあったが、思った以上によかったケースとえっ?こんなはずじゃあ・・・と思うケースがあったが、 いくら歌がうまくてヒット曲が多くてもつまらないステージングほどつまらないものはないと思う。
そんな中、当時は子供だった僕でも当時のライブアルバムに耳を通すとクオリティの高さは今だからこそ感じることが出来る。
ピンク・レディーがそのライブにこだわった最初のステージが1977年3月31日、東京・芝郵便貯金ホールで行われた「チャレンジ・コンサート」である。
カルメン77がヒットチャートの1位になり、アイドル首位の座を獲得し、乗りに乗っている頃、このコンサートは開催された。
世界を目指したステージのこだわりは随所に見られるこのステージ。
朝まで踊ろうの曲でステージに登場した彼女を熱狂的なファンが迎える。
たくさんのカバー曲披露の後、あいさつ。さすがに初めてのステージだということで多少緊張気味ではあるが、ボーカルは練習したとおりの歌唱法でしっかり声 をお腹から出しており、発声も聴きやすく、レコーディングしているような感じにも取れる。
このコンサートで「にがい涙」「愛するデューク」などのブラック的な曲や「ジョリーン」「カントリー・ロード」など当時のポップスヒットも多数披露してい る。
しかし、ピンク・レディーを世界へと狙っていたことは一番人気のモータウン・ストーリーと称した数々のモータウンの曲のメドレーである。
このあたりのこだわりがピンク・レディーを単なるアイドルして売り出そうとしているよりもっと先を見ていた気がするのである。
スープリームスのキープ・ミー・ハンギン・オンを(モータウン・ストーリーの)ラストに持ってきているあたり、不思議なことに因縁のような気がする。
アメリカでの第3弾予定がこのキープ・ミー・ハンギン・オンでしたからね。
最後にコンサート全体を通してバックの音の良さ。それは本当にいい音で彼女らのボーカルを引き立てている。
ホーンセクションとギター、ベースの絡みが丁寧に演奏されていて、それを聴くだけでも一聴の価値あり!です。
アレンジはこの時からず〜っとピンク・レディーをサポートしていくこととなる前田憲男氏。彼のコンサートにおけるピンク・レディーの魅力の引き出し方は単 なるアイドル歌手からエンターテイナーへと成長していく彼女らの大きな力となるのです。
カバー曲の数々をピンク・レディー流にアレンジするその様はピンク・レディーのステージングをよりダイナミックなものに変えていった気がします。
初期のステージでこれだけのステージがこなせるとはやはりこの頃からただのアイドルではなかったのだと振り返って思うのです。
さ、次回はあの後楽園球場でのファイナルコンサートについて書いていきます

 
これはけっこう貴重かも知れません。

さ よならピンク・レディー

3月31日といえば、スタートとなったチャレンジコンサートより後楽園球場でのファイナルコンサートの方がファンの方々には印象深いかも知れません。
無念のコンサート・・・そんな印象は今でも残っています。
精一杯頑張ってきた彼女たちの最後を日本のマスコミや一般大衆は暖かく見守ろうとはしませんでした。
僕自身、このコンサートは中継があったにも関わらず、見ていません。
というより、見れなかったのが本当のところなのです。
僕の住んでいる地域では電波がうまく入らず断念したというのが真相です。
リアルタイムで「見たかった〜」そう何度も思いました。
ピンク・レディーが解散発表した後、一番盛り上がったのはライバル百恵さんの引退、そして結婚でした。一時はピンク・レディー先行で歌謡界は回っていまし たが、この頃は百恵さん1本やりでしたね。
百恵さんの引退後もピンク・レディーが盛り上がることもなく、あれほどの実績を残したスーパースターの最後とは思えないほどの終わり方だったことは当時を 知るものにはにがい思い出はまさに因縁でしょうか?にがい涙だったことです。


当時の人気からして後楽園球場が満杯になるとは誰も思ってなかったでしょう。
キャンディーズと同じコンセプトで衣装も似たものをまとったピンク・レディーに、もうオーラというものはありませんでした。(キャンディーズと山口百恵を 足して割ったような衣装)
あれほどオリジナルな世界を作り、誰にも真似の出来ない業績を残したピンク・レディーの最後は見るも無残な結末を迎えたのでした。
いいことばかりは続かないそれが世の中だと当時僕は中学1年生ながら思っていました。
ご覧の写真、カルメン77を必死に歌っているワンショットですが、この写真からも悲痛な叫びが聞こえてきそうです。
最後の割 には主な曲の披露はなくヒットソン グだけでファンの聴きたいコアな曲の披露はほとんどありませんでした、この時のピンク・レディーはまさに時代に見捨てられた人形という中傷まで飛び交いま したがそんな見捨てられた人形たちが最後の最後燃え尽きるかのように、ステージを降りたのは午後4時45分のことでした。
派手な照明、スパンコールのキラキラ輝く衣装それまでのピンク・レディーの象徴だったステージのひとつも見せることなく最後のコンサートはまるでひとつの 行事のように終わったのです。
ピンク・レディーが解散した・・・春休み中のことでしたが、新学期になってもなんの話題にもならなかったのはいたしかたないことだったのかも知れませ ん・・・。



後にこのVTRを見て
オープニン グはオリジナル曲の「ハリケーン」 をバックに78年後楽園球場でのオープニングと同様のスタートである。
オープンカーから必死にファンに答えようとする彼女らの想いは存分に感じることの出来るスタートだといえよう。デビューからず〜っと縁のあったI Love How You Love Meを歌いながらステージへ。そこで本当のスタートは切られた・・・
「星から来た二人」ピンク・レディーの今までの出逢いを振り返るようにユニゾンで一生懸命歌うふたりを僕は感動の鼓動を唸らせながら耳の中を通過する。
「さよならピンク・レディー」そうだこれが現役最後なのだ・・そんな印象はあのOH!より星から来た二人の方がより心を揺さ振る気がした。
何度も練習したのだろうと思われるコメントのあと、ヒットメドレー。
ペッパー警部から渚のシンドバッドまでフルではなくメドレーで披露した。
どうでもいいようなお互いのソロの後、(どうせソロになるのにどうしてソロなの?と率直に思ったからです。)B面メドレー、モンスター、透明人間、カメレ オン・アーミーと続く。
その後はお決まり全盛期のメガヒット連発ウォンテッド、UFO、サウスポー。
後半に入って、ピンク・タイフーン、Kiss in the dark、リメンバー、OH!そしてグッバイソングで終了。
何を歌うかというより、二人で演じるピンク・レディーというものに対して彼女らは必死に答えようと最後のステージでは懸命に歌い踊った。あのオーラという ものはどこにも見当たらなかったが必死に最後の輝きを放とうと最後のパフォーマンスを見せる。
どしゃ降りの後楽園球場、ガラガラの客席、現実は傍目では厳しそうに見えるがデビューしてしばらくは誰もいないステージなどで歌ったこともある二人には幸 せ過ぎる4年7ヶ月であったことであろう。定員5万人の中に3万とされているが実際にはどれだけの人がピンク・レディーのお別れを見届けにきたか分らな い。でも現場へ足を運べない我々全国のファンからすると5万人以上はゆうにいたと思うがハテ。
しかし、この時の無念な終わり方は20数年たって全国ツアーという形で報われた気がする。この時、完全燃焼していたらもう二度とピンク・レディーにはお目 にかかれなったかも知れないのだ。



ピンク・レディーのステージは面白い。これはやっぱりこの最後のコンサートでも分る。
だてに世界のエンターテイナーではありません。
というのも、ファンのノリが最高なのはやはりピンク・レディーのコンサートだからなのでしょう。
アンコール曲であのレイフの曲(関連記事はこ こ)I Was Made for Dncin'を歌いましたがディスコサウンドをこれだけかっこよくこなせるのはやっぱりピンク・レディーくらいなのですから・・・。
ピンク・レディー最後の時は、今も永遠に時間の経過を知らず進んでいっているのです。


ビッグファイト からターニング・ポイントまで



PINKLADY LIVE!LIVE!LIVE!!このページもいよいよこのライブのご紹介となってまいりました。
今までピンク・レディーのライブについてたくさん載せてまいりましたが、今から書き記しますこのライブはピンク・レディーの活動期間の中で著しく環境が変 わり、世間の目がピンク・レディーという存在を正しく評価しなかった時期に行われたライブです。
当然、観客動員数も全盛期とは比べ物にならないほど落ちていきましたが、あの頃ピンク・レディーを取り巻く環境はどうだったのか?
そして当の本人ミーとケイの心境は如何だったのか?検証してみたいと思います。
79年の夏から80年の夏ピンク・レディーが世界のヒノキ舞台へと旅立っていった頃、アメリカでは華やかな世界でしたが、日本では?・・・
それではスタートです。

ビッグファイト
 
79年7 月。アメリカを始め世界25カ国で発 売された世界デビューシングル「Kiss in the dark」はアメリカビルーボード誌で37位を記録する大ヒットとなった。そんな折、日本でもその勢いにノッテビッグなコンサートが開催された。
前年(78年)の後楽園球場のコンサートに引き続きまたしても球場コンサート。
時に79年7月28日今回は西武所沢球場において開催。
観客動員数約2万人。前年の後楽園球場での7万人コンサートと比べると弱冠規模は小さいが前年が凄すぎるのであり、球場でコンサートが行われること自体、 ピンク・旋風健在といった感がありました。ピンク・レディーの二人はこの後、名古屋そして西宮それぞれの球場でもコンサートを行っています。
ピンク・レディー・ビッグファイト79全国縦断コンサートの幕開けです。
この年大ヒットしたロッド・スチュワートのアイム・セクシーを始めドナ・サマーのホット・スタッフ、ラスト・ダンス、アース・ウインド&ファイヤーのブ ギーワンダーランドなど当時のディスコチューンをふんだんに盛り込み、世界へ飛び立ったピンク・レディーの更なる飛躍を願ったステージ構成であった。
お馴染みのヒットナンバーももちろん歌っている(この時の最新シングルは波乗りパイレーツ。最後のベスト10ヒットである。)が特に印象深いのは自分たち のオリジナル「Kiss in the dar」を日本のステージで歌えたことであろう。何故なら彼女たちが望んでいた姿の曲だからである。
初めてのカバーシングル「ピンク・タイフーン」もコンサートの起爆剤として一役買っていたし、全てを出し尽くすピンク・レディーのライブはまた新たな記録 を残したといえる。曲だけではなく衣装も更にエレガントに更にセクシーにあくまでも世界を視野に入れたステージ構成はこんなところからも伺える事実であろ う。簡単にいうとミニ主流の衣装から変わっていったことでも分ると思います。

ピンクの二人もリハーサルから真剣な表情でこのコンサートへ臨む。
念願の世界デビューそしてこれまた念願のビルボードTOP40入り。
ピンク・レディープロジェクトの野望は実現へとひたすら突っ走る。
しかし、このコンサート終了から後、日本での活動に陰りが見え始めるのである。



ピンク・レディーのコンサートが素晴らしいことのひとつに選曲の良さがあった。
ピンク・レディーの強みは歌って踊ること。この強みがたくさんのいい曲たちを上手に料理できることの要因であったのだ。
当時の、アイドルと呼ばれる歌手たちもコンサートでは海外の曲はカバーしていた。しかし、自分流にアレンジ出来ていたかどうかは?疑問である。
(よく分らないので?です)
このビッグファイトからは今までのコンサートよりリアルタイムでのカバーが多くなったことが特徴かも知れない。
なにせ、自分たち(ピンク・レディー)もその仲間入りをしたのであるから、当然の選曲といえよう。
大好きなノック・オンウッド、スター・ラブなど新しいタイプの楽曲もピンクが歌えばピンクの歌になる。それが彼女たちの実力の高さなのだということは、当 時の関係者には分らないことだったのかも?知れない。



ピンク・レディーはいつもコンサートが始まる前、スタッフとともに気合入れを行ってステージに向かうという。
全てがうまくいくようになのか?普段の自分からピンク・レディーへと変身する瞬間なのか?
この儀式は03年から2年間限定で行われた復活ライブでも毎回行われていたという。
それほどまでに大切な儀式なのだ。

え〜少々私事ですが、確かにステージに上がる瞬間というのは緊張するものです。
きちんと声が出るのか?聴いてくれる人たちは喜んでくれるだろうか?
などと思います。僕も常に緊張します。周りは「緊張してないな〜」など言いますが、実はドキドキなのです。
それは、ある意味真剣だからなのかも?知れませんね。

ですからプロ歌手ともなればそれはなおさらのことではないか?と思います。

ピンク・レディー自体がステージに命を賭け、真のステージシンガーにそして真のエンターテイナーになろうという想いはこの辺りのことから思い描かれるので はないでしょうか?



80年NBC出演前後
 

夏の全国縦 断コンサートが終了しても、ピン ク・レディーのコンサートツアーはまだ終わっていなかった。
アメリカ進出最大で最後の大仕事NBCのレギュラー番組出演を機に大きく変化する。

80年1月、渡米直前、九州でコンサートを行っている。
そのコンサートはビッグファイトの続編として行われたが、明らかにNBC出演を意識しての内容であった。
このコンサート終了直後、彼女らはアメリカへと旅立つこととなる。

オープニングはご存知ノックオンウッドに始まるディスコメドレー。
中でも注目はピンク・タイフーンを原曲通り歌ったり、後にNBCの番組内で歌われたYou've Got a Freindなど新しい曲にも挑戦!
アメリカでの活動を確実に意識しての作りであった。
アメリカでのオリジナル、キスインザダーク、ダンシングインザホールズオブラブなども披露、アメリカ進出を機に更にショーアップしたステージはすでにアイ ドルの域を脱した感さえする。
ヒットナンバーのあと、ラストはもちろんドナ・サマーのラストダンス。
アンコールではこれまた本人たちが大好きなアメリカでのオリジナルで後に「うたかた」としてシングルリリースすることとなるストレンジャーズホエンウィキ スを披露して いる。
MCではしばらく日本を離れての活動となるが、がんばってきます!とファンの方々に意欲満々のメッセージでアピール。ショー全体を通して日本のエン ターテイナーとしての貫禄すら感じるコンサートである。
魅せ、聞かせする。ボーカル自体の声の張りも最高のライブである。
やはり、アメリカのテレビ番組のレギュラーというこれまた前代未聞の大仕事・・というより新しいものにまた挑戦するというスタイルはピンク・レディーなら ではのものだったと思うが、これまで、他のどのアーティストでも成し得なかったことをことごとくこなしてきたピンク・レディー。それはまさに奇跡といえる で あろう。
そして、ピンク・レディーのふたりもそのことがどういったことなのか、わからないまま過ぎた時期もあったであろう。
そんな中、ブームの終焉とともに訪れたのがこのNBC出演である。

しかし、後々の話でケイちゃんが乗り気ではなかったということは、この時点では分らなかった。
歌えるということ。それは彼女らにとってなによりかけがえのないもの。
そのかけがえのないもので遥かアメリカまで仕事に行くのであるから、全く嬉しくないわけがないと想う。

アメリカに行く前(NBC出演の為、長期渡米のこと)の最後のコンサートでのこの様子から一転・・・帰国後、彼女たちを待ち構えていたものとは・・・。



ターニング・ポイント(苦悩の日々 を過ごしたコンサートツアー)


彼女たちがアメリカへ長期出張をしている際に、日本で大きく流れたのが解散ニュース。
夫が出張の間、妻が浮気をしたみたいなもんでしょうか?自宅に帰った夫は妻の豹変振りに・・・言葉を失ってしまった・・・そんな感じでしょうか?
80年1月アメリカへ発つときにはすでに日本での人気は下降の一途を辿っていた。しかし、彼女たちが留守の間にその人気下降に輪をかけてこのような話題が 日本中を取り囲んでいた。まるで、犯罪者のようにピンク・レディーに関する記事はどれも目をふさぎたくなるようなものばかりであった。


当時の雑誌記事より

帰国後、ニューシングル「世界英雄史」で起死回生を図るべく、解散を全面否定。
JAPAN TOUR TURNING POINTが開催された。
しかし、この時・・いやNBC出演時から解散の方向へ歯車が回っていたのではないかと思う。日本での人気下降に伴い与えられたアメリカ進出という奇跡のよ うな仕事。2つのものは与えられない世の中において、日本でのブーム終焉のあと、彼女たちが果たすべく仕事はこのアメリカ進出であった。
しかし、ケイちゃんの自叙伝にもあるように、アメリカでの仕事に乗り気でなかったことから、残るは解散だけだったのである。
今、振り返るとそんな気がする。だから解散宣言のとき、「やり終えた・・」というコメントは適当だったのだと思う。

さて、この JAPN TOUR TURNING POINTではそんな解散ニュースを肯定するかのような構成であったことは頷ける。
解散否定をしながらも事務所との確執でモメていたことがなんとなく判る気がするのだ。
今更ながらに想うことはミー、ケイそれぞれのソロコーナーの充実である。
本来、デュオとしての価値の高いピンク・レディー。お客もふたりだから・・という感覚でライブ会場に足を運んでいるのに、いきなりミーのソロ、ケイのソロ がショーの全体の半分近くを占めてしまったら・・・周りはどう感じるのであろう?
タイトルTURNING POINTは今までとは違うピンク・レディーを・・アメリカで充分培ってきた力を存分に・・の意味も込められているのだろうが?
当時の風潮からいって”解散”といわれても仕方の無い構成だったのだと思う。
それぞれソロの活動もしながらピンク・レディーとしてもやる。そんな前向きな考えは当時のピンク・レディーにはとても思いつかないものだったのだ。
そしてそれをやれる環境でもなかったのだから・・・
当然、二人のボーカルにも吐きが感じられない・・つい半年前のアメリカへ行く前のコンサートではピンク・レディーの魅力が十二分に発揮出来ていたのに、こ の帰国後のコンサートではまったくオーラというものが声を通じて出ていない。
これでは、人気も出ないだろう・・と思われる。実際ノッテいないのだ。ミーちゃんのCallMeなどのソロ曲もただ、声を出しているだけで、一生懸命何か を振り切ろうとしているように聴こえるし、ケイちゃんにしてもどことなく淋しそうに聴こえる。実際この時、ふたりは苦しみ迷っていたのだ。もっと大きな チャンスを獲るか?辞めるか?いろんな狭間で本当に苦しんでいたのだ・・・。
人の心の反映とはこんなところから出てくるのであろう。
 この時のソロコーナーは解散後のふたりの路線そのものである。ミーちゃんはどちらかというとバラード中心でケイちゃんがビートの利いた曲を多く歌い、そ れがそれぞれの声をうまく生かしていた気がしていたが、この時ピンク・レディーでやるべきことをミーちゃんひとりに演じさせているような気がする。判らな いが、もしかしたら・・の方向性を事務所側も考えていたのだろうか?しかし、そのことも今となってはもうわからない・・・。


YOU KEPP ME HANGIN'ON(恋は終わったの)

JAPAN TOUR TURNING POINTで解散否定をする意味合いとしてこのYOU KEEP ME HANGIN’ONのリリースのことを会場で伝え、披露している。当時9月全米で 発売と報じられていたことから、この時点では解散をするということはまだ決定でなかったのであろう。
YOU KEEP ME HANGIN’ONはご存知シュープリームスの大ヒットナンバーである。シュープリームスの後にもセルフカバーとしてヒットして きたナンバーである。
彼女たちが憧れそして目指していたあのシュープリームスのナンバーをセルフカバーとしてリリース。これだけでも話題騒然であったのではなかろうか?思い返 せばこのYOU KEEP ME HANGIN'ONはデビューしてから最初のコンサートから取り入れモータウンを始めとするディスコヒットチューンの数々が彼女たちのステージを華やかに 彩ってきた。方向性は一番最初の頃から、ここに至るまでに一貫していたことは頷ける事実である。
レコーディングもすでにすませており、後は発売だけ・・のはずであった。・・・が、しかしその発売の月(80年9月)ピンク・レディーはピンク・レディー としての活動に終止符を打つべく解散宣言をしてしまった。
何がいけなかったのか?何が原因だったのか?今更考えても仕方の無いことであるが、せめてYOU KEEP ME HANGIN'ONのリリースまではいって欲しかった気がする。お蔵入りとなった彼女たちが吹き込んだYOU KEEP ME HANGIN'ONの音源。今どこでどうしているのだろうか?
ず〜っと後になってキム・ワイルドがこの曲を再びカバーしていることは周知の事実である。

シュープリームスを目指し格闘してきた日々もあとわずかで終止符(ピリオド)となる・・

このことだけを考えると、やり終えたとはしてもやって欲しかったことは山のようにあった気がするのは僕だけだろうか?・・・

79年夏、ビルーボード誌でTOP40入りを果たしてから前途洋洋に見えたピンク・レディーの1年間はわずか1年の間にコレほどまでに変わっていった。
アメリカ進出という誰もがうらやむビッグチャンスと引き換えに待っていたものは解散という事実。
この一番苦悩の時期にふたりはやれることは精一杯やってきたと思う。
この1年間のコンサートでその辺りの気持ちの変遷を感じていただけたでしょうか?

最後に、解散という事実は何もアメリカ進出があったから・・だけではないのだという こと、(ちょっと矛盾してますか?笑)ピンク・レディーという部分を離れてミー、ケイそれぞれが自分を大切したということなのだと思いま す。
それはそれで、苦しくも素敵な決断だったのだと思います・・。





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